文芸誌「婦人文芸」

「婦人文芸」は、戦前の商業雑誌「婦人文芸」(神近市子発行)の名を引き継ぎ、昭和三十一年に創刊されました。    創刊の日から長い年月が経ちましたが、女性の人生に内在する現代社会の真実を見つめ、自分の言葉で表現するという精神を胸に、今も書き続けています。  ともに文芸活動をしませんか? どんなジャンルでもかまいません。意欲のある方、お待ちしています。

第四回目インタビュー:河田日出子さん

「婦人文芸cafe」はサイト管理者の淘山竜子が婦人文芸会員に様々な話を聞き、随時アップしていこうという企画です。会員の意外な一面を見ることができればいいな、と思います。

 第四回目の「婦人文芸cafe」は河田日出子さんにお話を伺います。

 河田さんは、執筆に編集に運営に、様々な立場から「婦人文芸」を支えてこられました。私が入会したときは「最後の尼主(あるじ)」を連載中でらっしゃいました。凛とした鋭さと少女のような純粋さを併せ持つ河田さんの魅力に迫りたいと思います。
 それでは、河田さん、よろしくお願いします。





淘山:最初に、河田さんと「婦人文芸」の出会い、入会のいきさつを教えて下さい。

河田さん(以下敬称略):昭和六十三年九月発行の、新人自己紹介にそっくり書いてありますので、そのまま出させて頂きます。

 新人自己紹介     河田日出子

 河田日出子と申します。本名です。生まれましたのは、東京都豊島区西巣鴨で、昔で言えば省線、今で言えば山手線の大塚と巣鴨の丁度真ん中ぐらいの場所でした。戦後は大塚の家が焼けてしまいましたので原宿に引っ越し、嫁に行くまでそこで人となりました。(人となったつもりです)昭和十四年生まれです。現在は所沢の山口という、西武球場ユネスコ村に徒歩で二十分余のところに住んでいます。もうこちらにきて二十二年になります。
 女権意識が強かったせいではないと思っているのですが、二十一から三十五歳まで全国地域婦人団体連絡協議会地婦連)の事務局におりまして、次長になって二年目で病気退職いたしました。それからは十年ほど悶々の日が続き、することがないので気がついていたらものを書くようになっていました。
 昭和五十六年に『男たちよ』という詩集を一冊出しました。ほんとうは散文(小説)を出したかったのですが、草壁焔太さんという詩人が所沢に住んでいらして、その方のやっておられる同人誌(湖上)の同人となったご縁で詩集の方が先になりました。散文のほうはやはり所沢に公孫樹(いちょう)読書会というのがありまして、そこで九号まで同人誌を出したのですが、廃刊となりました。そういう時、新宿の紀の国屋で出会ったのが『婦人文芸』でした。
 それこそ霊感が走ったように、自分がこれから関わるのはこれだと思いまして買いもとめ、いくつかの作品を読ませて頂いて会員として入会させて頂いた次第です。
 私の頭の中から一生消えそうもない婦人運動家で衆議院銀でもあられた神近市子先生、その他、昔は婦人運動家でありながら、文芸というものを通じてご自分たちの主張や生きざまを発表してこられた方々の手によって創刊された『婦人文芸』が、今日まで生き続けているのを発見した時の私の驚きと喜びをご想像ください。
 私の恩師は、初代地婦連会長の故山高しげり先生ですが、先生も若き頃、文芸を愛され、書き読むことによって自らを高め、投稿もされた方でございます。先輩諸姉の歩まれました道の中に入らせて頂いて頑張ります。

  昭和六十三年六月六日
                      河田日出子 
〈追記〉平成21年11月第2詩集『女のうた』出版(市井社)


淘山:「婦人文芸」を通じて得た、思い出に残る出会いと言ったとき、誰との出会いを思い出しますか?

河田:創刊当時から関わってこられた藤井田鶴子さん、笠置八千代さん、織田昭子さんのお顔が目に浮かびます。藤井さんは、私がずっと読んでいた『婦人公論』の副編集長だった方。
 新宿歌舞伎町の西北ビル九階のご自身のお部屋を編集室に提供して下さり、このビルの一階で“花”という喫茶店をやっておられました。
 穏やかな方で、中野区の功運寺が生家、『放浪記』の林芙美子とお親しく、芙美子はよく功運寺を訪ねたようです。今は。お二人とも功運寺に眠っておられます。
 笠置八千代さんは、宝塚歌劇のスターでした。
 我が家のお嫁さんの母上は、宝塚がお好きだったようで、八千代さんをよく知っていました。晩年もシャレた方でした。ご逝去後、ご子息が『この花 この人』という交遊録を出版されました。八千草薫芥川比呂志川端康成岡本太郎ほか百七十人余の方々との交遊録です。人との出会いを花になぞらえたエッセー集で、私は夢中で読みました。
 織田昭子さんは『夫婦善哉』で有名な織田作之助の夫人。はっとする程美しい方でした。織田作との日々を書いた文章など、三十五歳で逝った作之助への愛がひしひしと感じられます。お三方とも泉下に逝かれてしまいましたが『婦人文芸』最盛期とも言える時代を生きた方として忘れ難いものがあります。


淘山:河田さんは長きに渡って「婦人文芸」を見守っていらしたわけですが、河田さんが入会当初の「婦人文芸」と現在の「婦人文芸」と、どんな風に違って見えますか? 雑誌「婦人文芸」についてでも、婦人文芸の会についてでもどちらでも構わないのでお聞かせ下さい。

河田:今からふり返ってみますと、私が入会した二十余年前は『婦人文芸』の最盛期ではなかったかと思います。新宿紀の国屋の同人誌コーナーにもおいてあり、当時はきらきら光る錦の時代、同人誌とは思えない綺羅に溢れていたように思います。
 現在は、いかにも同人誌という感じで、木綿の時代のように感じます。錦も木綿も比較できないくらい素晴らしいことは言うまでもありません。


淘山:ライフワークとも言えるお母様のことについて書かれた「最後の尼主(あるじ)」を「婦人文芸」にあしかけ19年をかけて連載されました(「序の章」が1990年発行60号に、終章が2009年発行87号に掲載)。文章芸術を実践され、書く主体として生きる河田さんが文章を通じてお母様と向き合われたことは大変なお仕事だったと思います。「最後の尼主」について、また、「最後の尼主」を「婦人文芸」に連載された理由や感想など、伺えますか?

河田:先日発表した五行歌

 この世に存在する
 ありとあらゆる
 言葉の中で
 一番好きなのは 
 母
   出典:雑誌『五行歌』2011年7月号

 というのがあります。母は二十七歳頃まで尼僧だった人です。私にとって母は、仰ぎ見るような人でした。中学生の頃、母は「私の人生は、小説なんてもんじゃありませんよ」と言いました。母の口から様々なことを聞いておけばよかったと思いますが、六十五歳で脳溢血で倒れた翌日、眠ったまま逝きました。「ぽっくり死にます」と口ぐせの母でしたがその通りの死に様(ざま)でした。我が家には祖父母も親類もなく、不思議に思った私は母にたづねましたら「親類などなくてもいいのです。兄姉(きょうだい)仲良くすればいいんですよ」と言われました。母の五人の子どもの中で、知りたがりは私だけでして、母の死後、母のことを知りたい思いにかられて、母の生地である金沢への旅が始まりました。母を知る事は、私の情緒の安定にはどうしても必要なことでした。
 母を乗り越えるには書く以外方法がなかったのです。近頃、私は、母というものから脱却して、漸く河田日出子として生きられるようになったと思っています。『婦人文芸』の締切りがあったことで、十六回に亘る連載を終えることができました。先達の皆様のお陰で掲載できましたこと、心から感謝です。
 『婦人文芸』に関わっている現在、存続させることこそ使命だと感じるこの頃です。


淘山:「婦人文芸」の好きなところを教えてください。

河田:正直なところ、入会して十年ほどは、例会に行くと胃腸をこわしていました。何故だかよく解りませんが、多分緊張の連続だったからでしょう。現在は皆様のお顔を見るのが楽しく、少しもストレスを感じません。木綿の風あいが好きなように思います。


淘山:河田さんは五行歌もおつくりになりますが、たった五行で作品世界をつくりあげるコツを教えていただけますか?

河田:五行歌は三十数年やっています。歌の語源は訴(うった)えで、ほとばしり出たつぶやきが、よく五行に収まることから、これは面白い短詩型だと思ったことによります。私の歌は、作るよりも出来るという場合が多いです。近頃は出来る、から、作る、方に向かわねばという気もしています。作る方々の歌にはかなわないようにも思います。私がうーんとうなった五行歌掲載しておきます。

 思い出に、
 殺されながら
 生きてゆく。
 君といた日は、
 輝くナイフだ。
      桜井匠馬
   出典:2004年公募 第4回「恋の五行歌」大賞

 「さようなら」よ
 「さらば」だ
 もう
 誰とも 
 離れない
      村山二永
   出典:雑誌『五行歌』2006年3月号表紙歌(巻頭作品)

 ゆうちゃんは
 いっちょうまえじゃ
 ない
 はっちょうまえでもない
 なんちょうまえでもない
      くどうゆうすけ(四歳)
   出典:雑誌『五行歌』2011年7月号


淘山:これから「婦人文芸」に入りたいと思っている方々にメッセージをお願いします。

河田:書くことは、自分自身を見詰め続けることでもあります。人として生まれてきて、自分を知ることほど面白いものはないと私は思っています。たった五行にしか表現していない五行歌でも人柄がにじみ出るのです。詩でも五行歌でも散文でもかまいません。
『婦人文芸』の扉を叩いてみて下さいませんか。編集を一手に引き受けてくれている淘山竜子さんは三十路の素敵な人。みんなでお待ちしております。

淘山:貴重なお話、ありがとうございました。