文芸誌「婦人文芸」

「婦人文芸」は、戦前の商業雑誌「婦人文芸」(神近市子発行)の名を引き継ぎ、昭和三十一年に創刊されました。    創刊の日から長い年月が経ちましたが、女性の人生に内在する現代社会の真実を見つめ、自分の言葉で表現するという精神を胸に、今も書き続けています。  ともに文芸活動をしませんか? どんなジャンルでもかまいません。意欲のある方、お待ちしています。

最新号「婦人文芸」99号:文芸同志通信より

 

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文芸同人誌「婦人文芸」第99号(東京都) : 文芸同志会通信

 

【「水神の森」都築洋子】

 出だしは日和(ひより)という中学女子学生が、が河川敷の草中に畑を作って暮らすホームレスの老人との出会いからはじまる。であるが、話の主体は、子供たちが育つ環境に事情があって、両親から離れて暮らす公的な児童養護施設での生活である。とくに、そこで育って、社会に出るため、就職や高校進学の問題を抱える人々の生活ぶりが描かれている。自分は、かつて「居場所なき若者たち」というテーマで、「もやい」というNPO団体を通して、彼等の生活ぶりを追った経験がある。また、多摩川河川敷のホームレスの取材もしたことがあるので、畑を作って作物を栽培しているところは多い(管理は国土交通省の国有地的場所であるが)。彼等の厳しい環境について作者が、かなりの知識があることがわかる。このような事柄は、小説化することでしか詳しく語れない面がある。また、日和がホームレスに関心を持つのも、いずれは施設を出て生活しなければならない自身の身の上と重なるのか、と思わせた。

 それが、ここでは、ホームレスの語る水神の化身である蛇の登場と結び付けられ、小説の全体の形式に幻想味を付加している。現実は、恵まれない境遇の人々の知れば涙の出るような辛い世界をまろやかに表現することに成功している。

【「義母と暮らす」粕谷幸子】

 語り手の義母は、区会議員をしている。その嫁として、議員のどのような生活になるかが、具体的に描かれている。なかで、作家・佐藤愛子氏のことが出ているので、実話に近いということがわかる。佐藤愛子氏の全盛期を考えると、おそらく昭和時代のように感じる。いずれにしても、嫁が義母の選挙活動に巻き込まれるという興味深く面白い話である。

【「ピエロの涙」斉藤よし子】

 平凡な家庭の主婦生活を送ったと思っているオリエが、思い出のテープを再生して昔を懐かしむ。それは、アレンという若者に英会話教師との交流のひとつが録音されている。それはオリエの30代の主婦の時のことで、アレンに恋心を抱いた忘れられない思い出である。そのなかで、結婚相手に抱く愛情と恋愛との異なる部分を、過去の思い出の中に、浮き彫りにしている。よくある出来事もそれぞれかけがえのない色合いをもつ。純粋の愛を求める女性の適わぬ想いの悲しみをひそかに抱く情念を描く。

 このほか、本誌には充実した多くのエッセイがある。

【「老い」駒井朝】における、人は必ず死ぬということの「必死」のおだやかさ生活。【「ロダン美術館にて人形について考える」森美可】は、ロダン肉食男子的な体質と自分の母親の日本人形作家の比較から民族の感性を比較する、文化論になっている。【「いくつになっても姉と妹(7)」秋本喜久子】などは、長編小説的描写力がある。日本文学は、こうした文学批評味わいを持った、新しい文学スタイルの誕生を予感させる。

発行所=〒東京都品川区小山7-15-6、菅原方。「婦人文芸の会」bi

第四回目インタビュー:河田日出子さん

「婦人文芸cafe」はサイト管理者の淘山竜子が婦人文芸会員に様々な話を聞き、随時アップしていこうという企画です。会員の意外な一面を見ることができればいいな、と思います。

 第四回目の「婦人文芸cafe」は河田日出子さんにお話を伺います。

 河田さんは、執筆に編集に運営に、様々な立場から「婦人文芸」を支えてこられました。私が入会したときは「最後の尼主(あるじ)」を連載中でらっしゃいました。凛とした鋭さと少女のような純粋さを併せ持つ河田さんの魅力に迫りたいと思います。
 それでは、河田さん、よろしくお願いします。





淘山:最初に、河田さんと「婦人文芸」の出会い、入会のいきさつを教えて下さい。

河田さん(以下敬称略):昭和六十三年九月発行の、新人自己紹介にそっくり書いてありますので、そのまま出させて頂きます。

 新人自己紹介     河田日出子

 河田日出子と申します。本名です。生まれましたのは、東京都豊島区西巣鴨で、昔で言えば省線、今で言えば山手線の大塚と巣鴨の丁度真ん中ぐらいの場所でした。戦後は大塚の家が焼けてしまいましたので原宿に引っ越し、嫁に行くまでそこで人となりました。(人となったつもりです)昭和十四年生まれです。現在は所沢の山口という、西武球場ユネスコ村に徒歩で二十分余のところに住んでいます。もうこちらにきて二十二年になります。
 女権意識が強かったせいではないと思っているのですが、二十一から三十五歳まで全国地域婦人団体連絡協議会地婦連)の事務局におりまして、次長になって二年目で病気退職いたしました。それからは十年ほど悶々の日が続き、することがないので気がついていたらものを書くようになっていました。
 昭和五十六年に『男たちよ』という詩集を一冊出しました。ほんとうは散文(小説)を出したかったのですが、草壁焔太さんという詩人が所沢に住んでいらして、その方のやっておられる同人誌(湖上)の同人となったご縁で詩集の方が先になりました。散文のほうはやはり所沢に公孫樹(いちょう)読書会というのがありまして、そこで九号まで同人誌を出したのですが、廃刊となりました。そういう時、新宿の紀の国屋で出会ったのが『婦人文芸』でした。
 それこそ霊感が走ったように、自分がこれから関わるのはこれだと思いまして買いもとめ、いくつかの作品を読ませて頂いて会員として入会させて頂いた次第です。
 私の頭の中から一生消えそうもない婦人運動家で衆議院銀でもあられた神近市子先生、その他、昔は婦人運動家でありながら、文芸というものを通じてご自分たちの主張や生きざまを発表してこられた方々の手によって創刊された『婦人文芸』が、今日まで生き続けているのを発見した時の私の驚きと喜びをご想像ください。
 私の恩師は、初代地婦連会長の故山高しげり先生ですが、先生も若き頃、文芸を愛され、書き読むことによって自らを高め、投稿もされた方でございます。先輩諸姉の歩まれました道の中に入らせて頂いて頑張ります。

  昭和六十三年六月六日
                      河田日出子 
〈追記〉平成21年11月第2詩集『女のうた』出版(市井社)


淘山:「婦人文芸」を通じて得た、思い出に残る出会いと言ったとき、誰との出会いを思い出しますか?

河田:創刊当時から関わってこられた藤井田鶴子さん、笠置八千代さん、織田昭子さんのお顔が目に浮かびます。藤井さんは、私がずっと読んでいた『婦人公論』の副編集長だった方。
 新宿歌舞伎町の西北ビル九階のご自身のお部屋を編集室に提供して下さり、このビルの一階で“花”という喫茶店をやっておられました。
 穏やかな方で、中野区の功運寺が生家、『放浪記』の林芙美子とお親しく、芙美子はよく功運寺を訪ねたようです。今は。お二人とも功運寺に眠っておられます。
 笠置八千代さんは、宝塚歌劇のスターでした。
 我が家のお嫁さんの母上は、宝塚がお好きだったようで、八千代さんをよく知っていました。晩年もシャレた方でした。ご逝去後、ご子息が『この花 この人』という交遊録を出版されました。八千草薫芥川比呂志川端康成岡本太郎ほか百七十人余の方々との交遊録です。人との出会いを花になぞらえたエッセー集で、私は夢中で読みました。
 織田昭子さんは『夫婦善哉』で有名な織田作之助の夫人。はっとする程美しい方でした。織田作との日々を書いた文章など、三十五歳で逝った作之助への愛がひしひしと感じられます。お三方とも泉下に逝かれてしまいましたが『婦人文芸』最盛期とも言える時代を生きた方として忘れ難いものがあります。


淘山:河田さんは長きに渡って「婦人文芸」を見守っていらしたわけですが、河田さんが入会当初の「婦人文芸」と現在の「婦人文芸」と、どんな風に違って見えますか? 雑誌「婦人文芸」についてでも、婦人文芸の会についてでもどちらでも構わないのでお聞かせ下さい。

河田:今からふり返ってみますと、私が入会した二十余年前は『婦人文芸』の最盛期ではなかったかと思います。新宿紀の国屋の同人誌コーナーにもおいてあり、当時はきらきら光る錦の時代、同人誌とは思えない綺羅に溢れていたように思います。
 現在は、いかにも同人誌という感じで、木綿の時代のように感じます。錦も木綿も比較できないくらい素晴らしいことは言うまでもありません。


淘山:ライフワークとも言えるお母様のことについて書かれた「最後の尼主(あるじ)」を「婦人文芸」にあしかけ19年をかけて連載されました(「序の章」が1990年発行60号に、終章が2009年発行87号に掲載)。文章芸術を実践され、書く主体として生きる河田さんが文章を通じてお母様と向き合われたことは大変なお仕事だったと思います。「最後の尼主」について、また、「最後の尼主」を「婦人文芸」に連載された理由や感想など、伺えますか?

河田:先日発表した五行歌

 この世に存在する
 ありとあらゆる
 言葉の中で
 一番好きなのは 
 母
   出典:雑誌『五行歌』2011年7月号

 というのがあります。母は二十七歳頃まで尼僧だった人です。私にとって母は、仰ぎ見るような人でした。中学生の頃、母は「私の人生は、小説なんてもんじゃありませんよ」と言いました。母の口から様々なことを聞いておけばよかったと思いますが、六十五歳で脳溢血で倒れた翌日、眠ったまま逝きました。「ぽっくり死にます」と口ぐせの母でしたがその通りの死に様(ざま)でした。我が家には祖父母も親類もなく、不思議に思った私は母にたづねましたら「親類などなくてもいいのです。兄姉(きょうだい)仲良くすればいいんですよ」と言われました。母の五人の子どもの中で、知りたがりは私だけでして、母の死後、母のことを知りたい思いにかられて、母の生地である金沢への旅が始まりました。母を知る事は、私の情緒の安定にはどうしても必要なことでした。
 母を乗り越えるには書く以外方法がなかったのです。近頃、私は、母というものから脱却して、漸く河田日出子として生きられるようになったと思っています。『婦人文芸』の締切りがあったことで、十六回に亘る連載を終えることができました。先達の皆様のお陰で掲載できましたこと、心から感謝です。
 『婦人文芸』に関わっている現在、存続させることこそ使命だと感じるこの頃です。


淘山:「婦人文芸」の好きなところを教えてください。

河田:正直なところ、入会して十年ほどは、例会に行くと胃腸をこわしていました。何故だかよく解りませんが、多分緊張の連続だったからでしょう。現在は皆様のお顔を見るのが楽しく、少しもストレスを感じません。木綿の風あいが好きなように思います。


淘山:河田さんは五行歌もおつくりになりますが、たった五行で作品世界をつくりあげるコツを教えていただけますか?

河田:五行歌は三十数年やっています。歌の語源は訴(うった)えで、ほとばしり出たつぶやきが、よく五行に収まることから、これは面白い短詩型だと思ったことによります。私の歌は、作るよりも出来るという場合が多いです。近頃は出来る、から、作る、方に向かわねばという気もしています。作る方々の歌にはかなわないようにも思います。私がうーんとうなった五行歌掲載しておきます。

 思い出に、
 殺されながら
 生きてゆく。
 君といた日は、
 輝くナイフだ。
      桜井匠馬
   出典:2004年公募 第4回「恋の五行歌」大賞

 「さようなら」よ
 「さらば」だ
 もう
 誰とも 
 離れない
      村山二永
   出典:雑誌『五行歌』2006年3月号表紙歌(巻頭作品)

 ゆうちゃんは
 いっちょうまえじゃ
 ない
 はっちょうまえでもない
 なんちょうまえでもない
      くどうゆうすけ(四歳)
   出典:雑誌『五行歌』2011年7月号


淘山:これから「婦人文芸」に入りたいと思っている方々にメッセージをお願いします。

河田:書くことは、自分自身を見詰め続けることでもあります。人として生まれてきて、自分を知ることほど面白いものはないと私は思っています。たった五行にしか表現していない五行歌でも人柄がにじみ出るのです。詩でも五行歌でも散文でもかまいません。
『婦人文芸』の扉を叩いてみて下さいませんか。編集を一手に引き受けてくれている淘山竜子さんは三十路の素敵な人。みんなでお待ちしております。

淘山:貴重なお話、ありがとうございました。

第三回インタビュー:永田陽子さん

「婦人文芸cafe」はサイト管理者の淘山竜子が婦人文芸会員に様々な話を聞き、随時アップしていこうという企画です。会員の意外な一面を見ることができればいいな、と思います。
  こんにちは。第三回の「婦人文芸カフェ」は永田陽子さんにお願いいたしました。
 永田さんへのインタビューは私(淘山竜子)が質問をいくつか考え、会員の森実生さんと志津谷元子さんが行いました。森さん、志津谷さんの草稿とお話をもとに進めていきたと思います。
 その前に、永田さんのこれまでの出版物を紹介したいと思います。

 詩集
「吾亦紅」(淘山注-読み:われもこう)(1974年 雪書房)
「残照」(1982年 野火の会)…第14回結核療養文芸賞を受賞。
「白露」(1988年 野火の会)
「天の大空を飛べ」(1996年 雪書房)

句集
「雪螢」(2000年 北溟社)

長編手記「病床日記」(1995年 雪書房)

その他に最近の「婦人文芸」掲載作品を載せた永田陽子作品集「門燈」(2004年)があります。

 それではインタビューをどうぞ。

  ◇   ◇   ◇

 「私は一キログラムで産まれて、この世に出る一瞬、その瞬間に脳性小児麻痺になり、一筋の細い道程以外に歩むことはなかった。」(随筆「月見草は開いても」より。『門燈』並びに「婦人文芸74号」所収)

 さわやかな秋の陽が射す日、車椅子に乗った永田陽子さんは柔らかな笑みを湛え、私たちを出迎えてくださいました。永田さんが婦人文芸に入会されたのは、昭和39年のこと。20号から作品を掲載されています。病と共に歩む人生の長い道程において、「婦人文芸」はどのような存在であり続けているのか、お話を伺いました。

 質問1:婦人文芸の会に入会された経緯をお話下さい。
 永田さん(以下敬称略):婦人文芸主催による「講演会」の小さな新聞記事を母が見つけ、私に勧めたのがきっかけでした。檀一雄船橋聖一などの作家の講演会に行くうちに、「婦人文芸」を読むようになり、合評会にも出席するようになりました。婦人文芸会員の故川田泰代さんと文通を始め、「何か書いて持っていらっしゃい」と言われ、その頃、北条民雄の「いのちの初夜」を読んで感動し、何か残せたらいいなと思っていましたので、詩を書き、3編持って行ったら、3編とも「婦人文芸」に載せて頂きました。
 書くつもりはなかったのですけど……、これでいいのかと思いながら書き続けてきました。
 (淘山注-以前は婦人文芸が主催し作家や評論家の先生をお呼びし、お話を伺う講演会が頻繁に開かれていました)

 質問2:婦人文芸と関わってきた中で、一番思い出に残っていることは何ですか。
 永田:その頃は今よりもっと脳性麻痺がひどかったのですけど、そういうものを全然感じさせない世界でした。婦人文芸の方は皆、私が障害者だということを感じさせないし、私も感じることがなかったのです。

 合評会の時、自分が書いた「台所の幻想」という詩について、皆が目の前にいる私には何も聞かず、「作者は子供がいるかいないか」という話を始めました。その時「自分は作者だけれど、作品を書いたら、もう私のものじゃないんだ。作品と自分は離れたものだ」ということが分かり、大変勉強になりました。このことが、その後の私を支えたのです。

 質問3:婦人文芸のどんなところが好きですか。
 永田:いつも「締め切り」を頂いたことですね(笑)。
 皆、べたべたせず、男性的で、作品を通じての交流でした。そういう中に入れてもらったことが、自分の人生にとって一番嬉しかったことです。  婦人文芸があったから、私は生きてこられたと言えます。婦人文芸がなかったら、私は生きてこられたかどうか、とっくに命がなかったかもしれません。  書くことが生きがいでした。一つのことにかじりついていて良かった。

 質問4:永田さんはどんな時に作品を作りますか。また、どんなものに詩のイメージを喚起されますか。
 永田:洗濯しながら……洗濯機の泡を見ながら(笑)。また、台所に立って、魚を焼きながら、とか。  あんまりのめり込まないで書けるほうですね。

 質問5:小説を書き始めたきっかけは?
 永田:エッセイだと本当のことを書かなければならないでしょう。でも、小説は事実を書かなくていい。小説を書いて、面白かったですね。家族にも自分の気持ちや考えを理解してもらえました。

 自分の力だけでなく、私でない力がどこかに加わって生きてきました。その感謝する対象としてキリスト教に入信しました。


    永田さんの強く清らかな心に圧倒されっぱなしの数時間でした。誰のせいにもしない、自分を信じ人を愛するその瞳に、無数の種がつまっているのです。その種から言葉の芽が出、詩や小説の花が咲きつづけていくことを願ってやみません。  

第二回目インタビュー:秋本喜久子さん

「婦人文芸cafe」はサイト管理者の淘山竜子が婦人文芸会員に様々な話を聞き、随時アップしていこうという企画です。会員の意外な一面を見ることができればいいな、と思います。

 第二回目の「婦人文芸cafe」は秋本喜久子さんにお話を伺います。

 秋本さんは、私が婦人文芸に最初に問い合わせをしたときに運営担当をなさっていて、電話で丁寧に会のことを説明してくださり、また、最初の出会いとなった新年会(銀座の串揚げ屋さんでした)では笑顔で私を迎えて下さった方です。
 前回の児玉さん同様、長い間、婦人文芸を支えていらした方でもあります。それでは、秋本さん、よろしくお願いします。

淘山:
最初に、秋本さんと「婦人文芸」の出会い、入会のいきさつを教えて下さい。

秋本さん(以下敬称略):
二十歳で実社会に出たのですが、ずっと、ものを書きたいと思っていました。そんな折、近くのビルで、放送文芸家協会という団体が、脚本の書き方を教えているのを知り、夜勉強に行きました。その後、グループを作って、実際に脚本を書いてみたのですが、うまく行かず、そこの先生に、婦人文芸を紹介してもらいました。

淘山: 
「婦人文芸」を通じて得た、思い出に残る出会いと言ったとき、誰との出会いを思い出しますか?

秋本:
お亡くなりになった川田泰代さんと、現在闘病中の藤井田鶴子さんです。川田さんには、はじめから、ご迷惑をかけている、という意識があったのですが、藤井さんには、そのような意識はありませんでした。
 それからしばらくして、二人目の子供を産んで復帰したときのことは忘れられません。(私は、初めての作品が掲載されたときに、婦人文芸ではじめて文学界の同人雑誌評に取り上げられたものですから、世間に通用する作品を書いている、という自信を持ってしまいました。生き方も生意気だったと思います)。
 復帰に当たり、私は藤井さんに、いろいろと抱負を述べまた。けれど、静かな物腰の藤井さんが、そのときだけは、ご機嫌が悪くなり、「そんなことでは駄目よ」というようなことをおっしゃったのです。私はひどく傷ついて帰ってきました。そして、一日半ばかりかけて、藤井さんと自分のやりとり思い出してみました。すると、なんと、まず私が藤井さんを傷つけるような言葉を吐いていたことに、気づいたのです。
 それから、私の生き方は変わりました。自分ではそんな意識はなくとも人を傷つけているものだ、という発見です。そのつもりで、心して生きなければ、というのが、そのとき藤井さんからいただいた最大の教訓です。とてもよい出会いだったと思います。

淘山:
「婦人文芸」の運営や編集を担当したときなどの、苦労話をお聞かせ下さい。

秋本:
 この会は、主宰者という者がいません。ですから、編集者といっても、作品を編集者の一存で直すことはできません。 こうしたらいいのになあ、と思うときもあり、本人にどこまでそれを言うべきかどうかとても迷いました。それで、ここまでは原稿の段階で言う、それ以上は合評会で述べるという基準を、自分なりにもうけていました。そのあたりが大変だったかもしれません。
 一般的に、書く能力と、批評してよい作品に導く能力とは別ですから、藤井さんのようによい編集者がいて、うまく導いてくれると、全体的に質は向上すると思います。
運営について。若いときに入会したのですが、私の知らないところですべてが決められ、ただ、ああしろこうしろと言われることに、抵抗感がありました。それで、自分が運営を任されたときから、何でも例会で相談することにしました。判断に迷ったときには先輩に相談しましたが、迷いのないものについては、直接例会に諮るようにしました。事前に会員から提案のあったことも、メモをしておいて議題に乗せ、皆さんの意見を聞きました。
 これが、誤解を招いたこともあったのではないかと思っています。誤解されるのは不愉快だけれど、それも含めて引き受けているので、だまって我慢しました。(大体、前もって相談するということは、根回しにつながるので、あまり好きではありません。二重構造になるのはよくないと思っていました)。

淘山:
実生活の忙しい生活(家事労働も含め)をこなしながら、女性が文学活動を続けていくということは本当に大変なことなんだなあと最近実感しているのですが、秋本さんを執筆に向かわせる、原動力となっているものは何ですか?

秋本:
 そもそも書く人間になりたい、と思ったのは、小学生5年のとき先生が、作家には男女の差別がない、と教えてくださったからです。だから、ひたすら、男女平等の仕事を手に入れたい、と思い続けたことです。
 でも、だんだん、それはほんの一握りの有能な人にしか許されない、厳しい世界だと知るようになりました。家族のことも、はじめは私小説のような書き方をしていても、時代に合っていれば話題にされましたが、だんだん時代遅れになってしまいました。けれども、書くということが日常化していくと、なかなかやめられません。
 あとは、どんなテーマで書くかという問題になりました。私、そして私の周りの人間は、みな普通の市民である、ひそやかに、悪いこともしないで生きている。それなのに、時代の影響、政治の影響を受けて、そうした生活が脅かされる。そんな人たちの日常を書こうと思うようになりました。今でも、なかなかうまく書けませんが、このテーマを追求して行きたいと思っています。そう思うと、またやる気が湧いてきます。

淘山:
他の同人雑誌にない、「婦人文芸」の良さはどんなところだと思いますか?

秋本:
 良さか悪さかわからないけれど、長い年月つぶれずにきたので、文学だけの会ではなくなっている、ということかしら。限られた人数ではあるけれども、同じ目的で集まった女性を、ある意味で救ってきたのではないか、そういう機能がいつの間にか加わったのではないかと思います。家に縛られていて、離れた所にいて、孤独な境涯にいて、といった人たちも、婦人文芸が、心の故郷として、また命綱として機能してきたと思います。私も会社を辞めたあと、つかまるものがなくて、婦人文芸が、頼りになりました。

淘山:
秋本さんの最近の創作の作品では、75号の「聖家族」、79号の「贈られた街」がありますが、私はどちら作品でも“家族”に対する秋本さんの視線を感じます。
執筆なさるときに、特に心に留めているテーマがあれば、教えて下さい。

秋本:
 私は、小川国夫の熱心な読者でした。彼の初期の作品に、「伸子の体」という短編があり、鴨を射止めた人が、掌にその鴨を乗せている。その中に「鳥は、自分を傷つけた者の手の中に憩っているかのようだった。」という文章があったのです。
 私は身震いしましたね。私の父親は掌に小鳥を乗せた人間でしたが、父親は、私の弟が可愛いあまりに期待をかけ、とっても厳しくしたために、弟は病気になってしまったんです。父親は、自分が息子を傷つけたことに気がつかずに、嘆き悲しんでいました。これが、私の父親像の原風景です。
 こういう関係が背景にあると思われる事件が、あまりにも多いと思いませんか。人間は、学習能力があるようで、なかなか人様の失敗を手本にできないものです。
 小説は、人に警告を発するものではない、と言いますが、せめて、こんな失敗があった、ということを書くことは許されるし、書いたものを読んで、ひらめく人がいてほしいと思います。そんな思いで、自分の家族をモデルに、家族の過ちを繰り返し、書こうとしています。うまくならないうちに、老化しているところですが。私の場合、自分の家族の歴史を残そうとしているのではありません。あくまで、モデルです。テーマのためにはいくらでも人物像を変えていきます。そして、小川国夫のように読者を身震いさせるような一行が入った小説を書くのが夢です。婦人文芸の作品は、作者自身や家族を書いてることが多いように思われがちです。そうした作品を批評するときに、作品として読まずに、モデルそのものを批判していることがありますが、あくまでも作品として読むように自分を律すべきだと思います。私も気をつけたいと思います。

淘山:
最後になりますが、これからの「婦人文芸」についてどんな思いをお持ちですか?

秋本:
 これまでは、文学は若い人間の所有物、と思われてきました。けれども、65歳以上が5人に1人の時代になって、高齢者の問題が、ますます顕在化してくると思います。若いときほど、感性は豊かではないかもしれないけれども、高齢者にとって切実な問題は、高齢者でなければわからないと思います。若い会員に支えられて、われわれ高齢者にも、場所を与えてくださればうれしいです。


淘山:貴重なお話、ありがとうございました。

第一回目インタビュー:「婦人文芸」を支えていらした児玉州子さん

「婦人文芸cafe」はサイト管理者の淘山竜子が婦人文芸会員に様々な話を聞き、随時アップしていこうという企画です。会員の意外な一面を見ることができればいいな、と思います。

 第一回目のインタビューは、これまで長きにわたって「婦人文芸」を支えていらした児玉州子さんにお願いしました。


淘山:どうぞ、宜しくお願いします。始めに、「婦人文芸」の同人になった経緯を教えてください。
児玉さん(以下敬称略):四十数年前のことです。
 娘の小学校友達の母親、故柳川弥生さんは詩人であり、婦人文芸の会員でもありました。
 「最近、なにかよいことがあったのでしょうね」彼女から話しかけられたとき、「よいことなんかなにもないわ」、と私は答えましたが「そんなことはないでしょ。絶対に、なにかあった筈ですよ。あなたの雰囲気、このごろとっても、やわらかになっていて、充実感あふれるものを、感じさせられますもの」
 「そう、そのようにみえるの?。でも、なにもないの。とは言っても、強いて探せば、戦争のために苦しくてどうしてよいか分からなかった状況を、原稿用紙に書いたの。九百三十枚になってやっと終わった、ってことぐらいかな? 」
 「それですよ、そのことに違いありませんよ! 」彼女は、わが意を得たりとばかりに言って、つづけられた。「そう、九百三十枚もね。そう、それはよかったこと。あめでとう、あなたは、とてもよいことをなさったのですよ」と、褒めてくれて、婦人文芸を紹介してくれたのでした。


淘山:編集担当をなさった時や、その他のことでも構いませんが苦労話をお聞かせ下さい。
児玉:少女期の私は、ピアノに夢中でした。数理は得手でしたが、文学には疎遠で無力でした。
 こんな私が、この同人誌の編集長を引き受けなければならなくなった理由は、当時の先輩が、私たち後輩には何の相談もせぬまま、会を閉じることに決めてしまったからでした。
 残された会員の中で、四十代の私は最高年齢でもありましたから、長岡房枝さん(のちの江川晴)、岡田安里さん、その他の皆さんに、今後どのようにしたらよいか、たずねてみました。
 時に、会には、三十万円もの借金も残されてありました。
 それでも、皆さんは「会を続けて行ってほしい」と言われ、「借金は、私たちでなんとかしましょう」と申し出てくれた人もいたのです。
 借金は、二年がかりで返済できましたが、その間の婦人文芸はうすっぺらなものしか出版できませんでした。

 当時、会は新宿区西大久保の西北ビル一階で喫茶店「花」を経営しておられた藤井田鶴子さん(元編集長)の、九階にある一室を借りておりました。
 会が書庫として拝借していた押入の中は、作り過ぎて放置されたままの「婦人文芸」が、新も旧もなく、乱雑に押し込めてありました。
 まず、それらを整理整頓することから始めました。棚が必要になり、皆さんに手伝ってもらって作りました。「婦人文芸」の歩みが一目で分かるように、一号から四十九号までの表紙絵を並べる作業も、致しました。五十号記念には「創刊号からの表紙画典」も掲載できまして、「婦人文芸」としての体裁が初めて整ったと、自負できるようになりました。

 なお、当時の編集作業は、文字数を数えて割り振らなければなりませんでしたから、大変でした。


淘山:「婦人文芸」を通しての、思い出に残る「出会い」と言ったとき、どんなことを思い出されますか。
児玉:私が入会した当初の、編集長は、川田泰代女史でした。
 彼女の自宅は、千駄ヶ谷にあって「あなたの原稿を読んであげるから、私の家まで持っていらっしゃいよ」と電話で言われたのです。
 「九百三十枚あるので、ミカン箱いっぱいになっているのですが」と私が言うと、「いくら多くともいいわよ、読んであげるから持っていらっしゃい」と言われる。実を言うと、これがかなり重いものでした。半分でも、と言ってくれるかと思いましたが、がまんをして持って行くことにしたのです。

 二日後に、彼女から電話がありました。
「五百枚分を一気に読みましたよ」と言われ、感想も聞かせて頂きました。
「戦争のために恋人を失った二人の女性の、その後の生き方が、それぞれに違って、それが良く書けてあるので、小説になっています。ただし、仮縫いのしつけが取れていないような文体なので、しつけが取れた形に仕上げること」と教えてくれたのです。
 大先輩、川田女史との出会が、私にやる気を起こさせました。
 誠に嬉しい出会いでした。


淘山:どんな作家に影響を受けましたか。また、ものを書き始めたのはどうしてですか。
児玉:ものを書き始めた動機は、戦死した人への思いで苦しんでいたからでした。
 私が、読書にうつつをぬかしたのは、その頃からで、世界文学全集をかなり読みあさり、徹夜することもありました。
 スタンダールモーパッサンやゾラ、またはギリシャ・ローマ古典劇集やインド集などなど、夢中になって読みました。
 私が、長文を苦にしないのは、世界文学全集を愛読したからだと思っています。
 でも、娘たちからは「訳文ばかり読んでいたから、おかあさんの文は下手くそなのよ」などと言われどうしです。

 現代文豪名作全集の中で、私が気に入っているのは、芥川龍之介の文体です。一行一行、鋭い刃物で切り込んでいくような才が見えるところが、好きです。


淘山:「東京残留物語」等、児玉さんの戦争に関する作品を読みまして、作中の、私と同世代の女性の苦闘は、初めて戦争を具体的に感じることのできる貴重な読書体験でした。これからの若い世代にどんなことを伝えていきたいですか。
児玉:私たち、昭和十二年以前の女学校の教師は、大正デモクラシーの気風を浴びたモダニストたちで、戦争は悪だと教えました。
 学園内の雰囲気は平和そのもので、大きく広がる校庭の緑の芝生。色とりどりの花が咲き競うリボン花壇。料理実習も、豊富なメニュー。スカイダイビングを楽しむ女性が、飛行服姿で現れて、校庭に白い絹のパラシュートを大きく広げてみせて、スカイダイビングの楽しさを話されたり。校長もハンサムな方で、英会話も、スキーも、スケートも、また水彩画などは、絵画の先生よりもお上手で素敵な方でした。校長はアメリカ帰りの後輩を呼んで、アメリカ事情を聞く会を開いたり。また、私たちの関西旅行は、七泊八日と豪華版でした。
 私の卒業は昭和十二年春。その年の七月に日中戦争が起こりました。
 それからの教育内容は、がらり、戦時教育にと塗りつぶされてしまうのです。
 結果は、特攻隊の悲劇も生じます。
 私たちは、政治の行方に、もっともっと関心を持って、自分の意志を示さなければならないと思います。
 一億国民の心が、ローラーで踏み鳴らされ、マインドコントロールされるようであってはならないのです。のほほんとしていては、いけないのです。
 国の、地球の、将来を常に考え、教育の大切さを、よくよく考えなければならないと思います。

淘山:貴重なお話、ありがとうございました。


 児玉さんは大変にお元気な方で、初めてお会いしたときには驚きました。太極拳のエッセイも連載され、それを読むと児玉さんの底知れぬパワーを感じさせられます。何を書くのか、大きな太い柱をお持ちの児玉さんに日々強さとしなやかさを感じています。