文芸誌「婦人文芸」

「婦人文芸」は、戦前の商業雑誌「婦人文芸」(神近市子発行)の名を引き継ぎ、昭和三十一年に創刊されました。    創刊の日から長い年月が経ちましたが、女性の人生に内在する現代社会の真実を見つめ、自分の言葉で表現するという精神を胸に、今も書き続けています。  ともに文芸活動をしませんか? どんなジャンルでもかまいません。意欲のある方、お待ちしています。

第二回目インタビュー:秋本喜久子さん

「婦人文芸cafe」はサイト管理者の淘山竜子が婦人文芸会員に様々な話を聞き、随時アップしていこうという企画です。会員の意外な一面を見ることができればいいな、と思います。

 第二回目の「婦人文芸cafe」は秋本喜久子さんにお話を伺います。

 秋本さんは、私が婦人文芸に最初に問い合わせをしたときに運営担当をなさっていて、電話で丁寧に会のことを説明してくださり、また、最初の出会いとなった新年会(銀座の串揚げ屋さんでした)では笑顔で私を迎えて下さった方です。
 前回の児玉さん同様、長い間、婦人文芸を支えていらした方でもあります。それでは、秋本さん、よろしくお願いします。

淘山:
最初に、秋本さんと「婦人文芸」の出会い、入会のいきさつを教えて下さい。

秋本さん(以下敬称略):
二十歳で実社会に出たのですが、ずっと、ものを書きたいと思っていました。そんな折、近くのビルで、放送文芸家協会という団体が、脚本の書き方を教えているのを知り、夜勉強に行きました。その後、グループを作って、実際に脚本を書いてみたのですが、うまく行かず、そこの先生に、婦人文芸を紹介してもらいました。

淘山: 
「婦人文芸」を通じて得た、思い出に残る出会いと言ったとき、誰との出会いを思い出しますか?

秋本:
お亡くなりになった川田泰代さんと、現在闘病中の藤井田鶴子さんです。川田さんには、はじめから、ご迷惑をかけている、という意識があったのですが、藤井さんには、そのような意識はありませんでした。
 それからしばらくして、二人目の子供を産んで復帰したときのことは忘れられません。(私は、初めての作品が掲載されたときに、婦人文芸ではじめて文学界の同人雑誌評に取り上げられたものですから、世間に通用する作品を書いている、という自信を持ってしまいました。生き方も生意気だったと思います)。
 復帰に当たり、私は藤井さんに、いろいろと抱負を述べまた。けれど、静かな物腰の藤井さんが、そのときだけは、ご機嫌が悪くなり、「そんなことでは駄目よ」というようなことをおっしゃったのです。私はひどく傷ついて帰ってきました。そして、一日半ばかりかけて、藤井さんと自分のやりとり思い出してみました。すると、なんと、まず私が藤井さんを傷つけるような言葉を吐いていたことに、気づいたのです。
 それから、私の生き方は変わりました。自分ではそんな意識はなくとも人を傷つけているものだ、という発見です。そのつもりで、心して生きなければ、というのが、そのとき藤井さんからいただいた最大の教訓です。とてもよい出会いだったと思います。

淘山:
「婦人文芸」の運営や編集を担当したときなどの、苦労話をお聞かせ下さい。

秋本:
 この会は、主宰者という者がいません。ですから、編集者といっても、作品を編集者の一存で直すことはできません。 こうしたらいいのになあ、と思うときもあり、本人にどこまでそれを言うべきかどうかとても迷いました。それで、ここまでは原稿の段階で言う、それ以上は合評会で述べるという基準を、自分なりにもうけていました。そのあたりが大変だったかもしれません。
 一般的に、書く能力と、批評してよい作品に導く能力とは別ですから、藤井さんのようによい編集者がいて、うまく導いてくれると、全体的に質は向上すると思います。
運営について。若いときに入会したのですが、私の知らないところですべてが決められ、ただ、ああしろこうしろと言われることに、抵抗感がありました。それで、自分が運営を任されたときから、何でも例会で相談することにしました。判断に迷ったときには先輩に相談しましたが、迷いのないものについては、直接例会に諮るようにしました。事前に会員から提案のあったことも、メモをしておいて議題に乗せ、皆さんの意見を聞きました。
 これが、誤解を招いたこともあったのではないかと思っています。誤解されるのは不愉快だけれど、それも含めて引き受けているので、だまって我慢しました。(大体、前もって相談するということは、根回しにつながるので、あまり好きではありません。二重構造になるのはよくないと思っていました)。

淘山:
実生活の忙しい生活(家事労働も含め)をこなしながら、女性が文学活動を続けていくということは本当に大変なことなんだなあと最近実感しているのですが、秋本さんを執筆に向かわせる、原動力となっているものは何ですか?

秋本:
 そもそも書く人間になりたい、と思ったのは、小学生5年のとき先生が、作家には男女の差別がない、と教えてくださったからです。だから、ひたすら、男女平等の仕事を手に入れたい、と思い続けたことです。
 でも、だんだん、それはほんの一握りの有能な人にしか許されない、厳しい世界だと知るようになりました。家族のことも、はじめは私小説のような書き方をしていても、時代に合っていれば話題にされましたが、だんだん時代遅れになってしまいました。けれども、書くということが日常化していくと、なかなかやめられません。
 あとは、どんなテーマで書くかという問題になりました。私、そして私の周りの人間は、みな普通の市民である、ひそやかに、悪いこともしないで生きている。それなのに、時代の影響、政治の影響を受けて、そうした生活が脅かされる。そんな人たちの日常を書こうと思うようになりました。今でも、なかなかうまく書けませんが、このテーマを追求して行きたいと思っています。そう思うと、またやる気が湧いてきます。

淘山:
他の同人雑誌にない、「婦人文芸」の良さはどんなところだと思いますか?

秋本:
 良さか悪さかわからないけれど、長い年月つぶれずにきたので、文学だけの会ではなくなっている、ということかしら。限られた人数ではあるけれども、同じ目的で集まった女性を、ある意味で救ってきたのではないか、そういう機能がいつの間にか加わったのではないかと思います。家に縛られていて、離れた所にいて、孤独な境涯にいて、といった人たちも、婦人文芸が、心の故郷として、また命綱として機能してきたと思います。私も会社を辞めたあと、つかまるものがなくて、婦人文芸が、頼りになりました。

淘山:
秋本さんの最近の創作の作品では、75号の「聖家族」、79号の「贈られた街」がありますが、私はどちら作品でも“家族”に対する秋本さんの視線を感じます。
執筆なさるときに、特に心に留めているテーマがあれば、教えて下さい。

秋本:
 私は、小川国夫の熱心な読者でした。彼の初期の作品に、「伸子の体」という短編があり、鴨を射止めた人が、掌にその鴨を乗せている。その中に「鳥は、自分を傷つけた者の手の中に憩っているかのようだった。」という文章があったのです。
 私は身震いしましたね。私の父親は掌に小鳥を乗せた人間でしたが、父親は、私の弟が可愛いあまりに期待をかけ、とっても厳しくしたために、弟は病気になってしまったんです。父親は、自分が息子を傷つけたことに気がつかずに、嘆き悲しんでいました。これが、私の父親像の原風景です。
 こういう関係が背景にあると思われる事件が、あまりにも多いと思いませんか。人間は、学習能力があるようで、なかなか人様の失敗を手本にできないものです。
 小説は、人に警告を発するものではない、と言いますが、せめて、こんな失敗があった、ということを書くことは許されるし、書いたものを読んで、ひらめく人がいてほしいと思います。そんな思いで、自分の家族をモデルに、家族の過ちを繰り返し、書こうとしています。うまくならないうちに、老化しているところですが。私の場合、自分の家族の歴史を残そうとしているのではありません。あくまで、モデルです。テーマのためにはいくらでも人物像を変えていきます。そして、小川国夫のように読者を身震いさせるような一行が入った小説を書くのが夢です。婦人文芸の作品は、作者自身や家族を書いてることが多いように思われがちです。そうした作品を批評するときに、作品として読まずに、モデルそのものを批判していることがありますが、あくまでも作品として読むように自分を律すべきだと思います。私も気をつけたいと思います。

淘山:
最後になりますが、これからの「婦人文芸」についてどんな思いをお持ちですか?

秋本:
 これまでは、文学は若い人間の所有物、と思われてきました。けれども、65歳以上が5人に1人の時代になって、高齢者の問題が、ますます顕在化してくると思います。若いときほど、感性は豊かではないかもしれないけれども、高齢者にとって切実な問題は、高齢者でなければわからないと思います。若い会員に支えられて、われわれ高齢者にも、場所を与えてくださればうれしいです。


淘山:貴重なお話、ありがとうございました。