文芸誌「婦人文芸」

「婦人文芸」は、戦前の商業雑誌「婦人文芸」(神近市子発行)の名を引き継ぎ、昭和三十一年に創刊されました。    創刊の日から長い年月が経ちましたが、女性の人生に内在する現代社会の真実を見つめ、自分の言葉で表現するという精神を胸に、今も書き続けています。  ともに文芸活動をしませんか? どんなジャンルでもかまいません。意欲のある方、お待ちしています。

第一回目インタビュー:「婦人文芸」を支えていらした児玉州子さん

「婦人文芸cafe」はサイト管理者の淘山竜子が婦人文芸会員に様々な話を聞き、随時アップしていこうという企画です。会員の意外な一面を見ることができればいいな、と思います。

 第一回目のインタビューは、これまで長きにわたって「婦人文芸」を支えていらした児玉州子さんにお願いしました。


淘山:どうぞ、宜しくお願いします。始めに、「婦人文芸」の同人になった経緯を教えてください。
児玉さん(以下敬称略):四十数年前のことです。
 娘の小学校友達の母親、故柳川弥生さんは詩人であり、婦人文芸の会員でもありました。
 「最近、なにかよいことがあったのでしょうね」彼女から話しかけられたとき、「よいことなんかなにもないわ」、と私は答えましたが「そんなことはないでしょ。絶対に、なにかあった筈ですよ。あなたの雰囲気、このごろとっても、やわらかになっていて、充実感あふれるものを、感じさせられますもの」
 「そう、そのようにみえるの?。でも、なにもないの。とは言っても、強いて探せば、戦争のために苦しくてどうしてよいか分からなかった状況を、原稿用紙に書いたの。九百三十枚になってやっと終わった、ってことぐらいかな? 」
 「それですよ、そのことに違いありませんよ! 」彼女は、わが意を得たりとばかりに言って、つづけられた。「そう、九百三十枚もね。そう、それはよかったこと。あめでとう、あなたは、とてもよいことをなさったのですよ」と、褒めてくれて、婦人文芸を紹介してくれたのでした。


淘山:編集担当をなさった時や、その他のことでも構いませんが苦労話をお聞かせ下さい。
児玉:少女期の私は、ピアノに夢中でした。数理は得手でしたが、文学には疎遠で無力でした。
 こんな私が、この同人誌の編集長を引き受けなければならなくなった理由は、当時の先輩が、私たち後輩には何の相談もせぬまま、会を閉じることに決めてしまったからでした。
 残された会員の中で、四十代の私は最高年齢でもありましたから、長岡房枝さん(のちの江川晴)、岡田安里さん、その他の皆さんに、今後どのようにしたらよいか、たずねてみました。
 時に、会には、三十万円もの借金も残されてありました。
 それでも、皆さんは「会を続けて行ってほしい」と言われ、「借金は、私たちでなんとかしましょう」と申し出てくれた人もいたのです。
 借金は、二年がかりで返済できましたが、その間の婦人文芸はうすっぺらなものしか出版できませんでした。

 当時、会は新宿区西大久保の西北ビル一階で喫茶店「花」を経営しておられた藤井田鶴子さん(元編集長)の、九階にある一室を借りておりました。
 会が書庫として拝借していた押入の中は、作り過ぎて放置されたままの「婦人文芸」が、新も旧もなく、乱雑に押し込めてありました。
 まず、それらを整理整頓することから始めました。棚が必要になり、皆さんに手伝ってもらって作りました。「婦人文芸」の歩みが一目で分かるように、一号から四十九号までの表紙絵を並べる作業も、致しました。五十号記念には「創刊号からの表紙画典」も掲載できまして、「婦人文芸」としての体裁が初めて整ったと、自負できるようになりました。

 なお、当時の編集作業は、文字数を数えて割り振らなければなりませんでしたから、大変でした。


淘山:「婦人文芸」を通しての、思い出に残る「出会い」と言ったとき、どんなことを思い出されますか。
児玉:私が入会した当初の、編集長は、川田泰代女史でした。
 彼女の自宅は、千駄ヶ谷にあって「あなたの原稿を読んであげるから、私の家まで持っていらっしゃいよ」と電話で言われたのです。
 「九百三十枚あるので、ミカン箱いっぱいになっているのですが」と私が言うと、「いくら多くともいいわよ、読んであげるから持っていらっしゃい」と言われる。実を言うと、これがかなり重いものでした。半分でも、と言ってくれるかと思いましたが、がまんをして持って行くことにしたのです。

 二日後に、彼女から電話がありました。
「五百枚分を一気に読みましたよ」と言われ、感想も聞かせて頂きました。
「戦争のために恋人を失った二人の女性の、その後の生き方が、それぞれに違って、それが良く書けてあるので、小説になっています。ただし、仮縫いのしつけが取れていないような文体なので、しつけが取れた形に仕上げること」と教えてくれたのです。
 大先輩、川田女史との出会が、私にやる気を起こさせました。
 誠に嬉しい出会いでした。


淘山:どんな作家に影響を受けましたか。また、ものを書き始めたのはどうしてですか。
児玉:ものを書き始めた動機は、戦死した人への思いで苦しんでいたからでした。
 私が、読書にうつつをぬかしたのは、その頃からで、世界文学全集をかなり読みあさり、徹夜することもありました。
 スタンダールモーパッサンやゾラ、またはギリシャ・ローマ古典劇集やインド集などなど、夢中になって読みました。
 私が、長文を苦にしないのは、世界文学全集を愛読したからだと思っています。
 でも、娘たちからは「訳文ばかり読んでいたから、おかあさんの文は下手くそなのよ」などと言われどうしです。

 現代文豪名作全集の中で、私が気に入っているのは、芥川龍之介の文体です。一行一行、鋭い刃物で切り込んでいくような才が見えるところが、好きです。


淘山:「東京残留物語」等、児玉さんの戦争に関する作品を読みまして、作中の、私と同世代の女性の苦闘は、初めて戦争を具体的に感じることのできる貴重な読書体験でした。これからの若い世代にどんなことを伝えていきたいですか。
児玉:私たち、昭和十二年以前の女学校の教師は、大正デモクラシーの気風を浴びたモダニストたちで、戦争は悪だと教えました。
 学園内の雰囲気は平和そのもので、大きく広がる校庭の緑の芝生。色とりどりの花が咲き競うリボン花壇。料理実習も、豊富なメニュー。スカイダイビングを楽しむ女性が、飛行服姿で現れて、校庭に白い絹のパラシュートを大きく広げてみせて、スカイダイビングの楽しさを話されたり。校長もハンサムな方で、英会話も、スキーも、スケートも、また水彩画などは、絵画の先生よりもお上手で素敵な方でした。校長はアメリカ帰りの後輩を呼んで、アメリカ事情を聞く会を開いたり。また、私たちの関西旅行は、七泊八日と豪華版でした。
 私の卒業は昭和十二年春。その年の七月に日中戦争が起こりました。
 それからの教育内容は、がらり、戦時教育にと塗りつぶされてしまうのです。
 結果は、特攻隊の悲劇も生じます。
 私たちは、政治の行方に、もっともっと関心を持って、自分の意志を示さなければならないと思います。
 一億国民の心が、ローラーで踏み鳴らされ、マインドコントロールされるようであってはならないのです。のほほんとしていては、いけないのです。
 国の、地球の、将来を常に考え、教育の大切さを、よくよく考えなければならないと思います。

淘山:貴重なお話、ありがとうございました。


 児玉さんは大変にお元気な方で、初めてお会いしたときには驚きました。太極拳のエッセイも連載され、それを読むと児玉さんの底知れぬパワーを感じさせられます。何を書くのか、大きな太い柱をお持ちの児玉さんに日々強さとしなやかさを感じています。